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食は喜びであり、いのちの源である。

文明開化まで主食といえばご飯だった日本。欧米から主食として持ち込まれたパンを日本人好みに作り変えるだけでなく、あんを入れ、“お菓子”にしたのは木村屋初代の木村安兵衛でした。当時の常識を打破する考えから生まれた「酒種桜あんぱん」は、明治8年に明治天皇にも献上され、全国的な存在に。以降、関東大震災や幾多の戦争、生活様式の激変を経ても木村屋總本店は在り続けています。7代目の木村光伯さんにお話を伺う、連載3回目です。前編は、技と心を継承について、そして後編では、工場の様子を中心に紹介していきます。

木村光伯(きむら・みつのり)
1978年東京都生まれ。学習院大学在学中より木村屋總本店のパン工場でアルバイトを開始。卒業後は家業である、木村屋總本店に入社。専門学校や米国留学で本格的にパン作りを学ぶ。製造現場の他に、開発や販売の仕事にも従事し、2005年に取締役、2006年に常務取締役、その後7代目社長に就任する。

【前編はこちら】

――前編では「人を育てることが味を受け継ぐことにつながる」というお話をいただきました。そのための施策をお聞かせください。

それは、やはりデータ化することなんです。誰でも同じようにパンを作れるように、精度が高い数字として蓄積をしています。
かつては師弟関係で「背中を見て覚えろ」という時代も続いていました。それも文化なのですが、少子高齢化時代も見えていましたし、それによる弊害もあります。

発酵が進み、ふっくらとしてきたパン生地。木村さんは指先で状態を読み取る。
工場の最も目立つ位置に掲示されていた張り紙。心をひとつにしてパン作りに取り組む。

そこで、それまでのマニュアルの精度を高めて、そこにデータの根拠をつけていくことにしました。従来のものをブラッシュアップし続けることは現在も行っています。
ただ、ものづくりというのは、毎日同じことを繰り返すことでもある。これにより、感覚を磨くのですが、途中で飽きてしまったり、やる気が続かないこともあります。そこで、個別に目標を立てる仕組みを作りました。
例えば「あんぱんを1分間に〇個包めるようにしよう」などです。あんを生地できれいに包むには技術が必要で、入りたての頃は 1 分間に 2 ~3 個が限界です。続けるうちに腕が上がってくると、6~9個包めるようになり、熟練すると12 個以上できるようになります。この目標値を個別に決めるのです。成長や変化を実感することはモチベーションになります。

取材時に行われていたチョココロネの製造。細長いパン生地を、職人さんが金属製の芯に巻き付ける。
オーブンで焼きあがる様子。酒種生地が焼ける甘い匂いが漂う。
焼きあがったパン生地から、金属芯を取り外す職人さんたち。目にもとまらぬ速さで引き抜かれていく。
「切りあん」の製造のようす。ここまで作れるようになるには早い人でも7年の歳月が必要。
「切りあん」の製造のようす。ここまで作れるようになるには早い人でも7年の歳月が必要。

このように作ったパンを売場まで運び、販売をするにも独自の工夫があるんです。今、直営店の銀座本店をはじめ、百貨店ではショーケースに入ったパンを対面で販売しています。
今、多くのパン屋さんはお客様がパンをトングで取るセルフ方式を導入していますが、私たちはそれをしません。なぜなら酒種発酵のパンが乾燥しやすいからです。
販売のギリギリまで蓋つきのケースに保管し、売れ行きを見ながら補充していきます。このときに、売場からどう見えるかなどを考えながら置いていくのです。
どのパンが売れるかは、季節だけではなく、その日の天気によっても変わります。これを読むのも販売員さんの技術です。

――パンを作る人だけでなく、販売する人も職人なんですね。

はい。“技”ですから、その人の生き方や心持ちも関わってきます。パンは数日前に発注をかけるのですが、これも現場のスタッフが売れ残りが出ないように考えながら数を決めていきます。
これら一連の販売の技を、マニュアル化しようと進めたのですが、その量が膨大になってしまいましたし、販売スタッフからいきいきとした雰囲気が削がれてしまい、こちらはうまくいきませんでした。
やはり、売り場ごと、お客様ごとに「また来たい」と思っていただくポイントは異なります。ある程度はマニュアルにできても、それ以上はその人の能力によるものなのだと感じました。
ただ、発注量については肌感覚ではなく、データを優先し判断しています。これにより、フードロスはかなり低減できました。
パン製造同様、販売職にも個別の目標を設定しており、個人の成長に伴走して評価しています。制度導入以降は、「販売が楽しい」という声が現場から聞こえるようになりました。
興味深いのは、販売員が異動したら、お客様もついてきてくださるケースもあること。その販売員がいる店舗に足を運んでくださったり、売り場に遊びに来てくださったりします。
私も販売を体験してきて感じたのですが、お客様に育てていただいく部分も大きいからかもしれません。最低限の販売知識からスタートし「昔はこんなパンもあったのよ」と知識を、「こうして食べるとおいしいのよ」とアレンジ方法を教えていただいたこともありました。
やはり、対面販売はコミュニケーションが生まれますから、お客様と販売員の距離が近くなるんでしょうね。この販売方法も私たちの伝統なのだと感じています。

――酒種発酵のパンが乾きやすいことで生まれた対面販売は、独自の文化を生み出しているのですね。

そうなんですよ。お客様の手にパンをお渡しするまで、高い品質を維持し、そこからお口に入るまで、美味しく安全に維持するコツをお伝えするのも販売員のミッションだと感じています。

――それと同時に、木村屋總本店は、スーパーやコンビニなどでの販路拡大もかなり早くから進めています。

流通に乗せて販売するパンを総称して「袋パン」というのですが、あれを始めたのは1960年代でした。曾祖父や祖父たちが、「日本にパンの文化をもっと広めていきたい」という強い思いがあり、販路のチャンネル拡大も行ってきました。
袋パンへの進出は大きな冒険でしたし、賭ける要素もあったと思いますが、全国津々浦々への販路拡大を実現。おかげさまで多くの方に知っていただき、選んでいただいております。

その中でも根強い人気を誇っているのが、1981(昭和56)に販売した「むしケーキ」です。
口溶けがよく濃厚で、カステラのようでありながら、おまんじゅうのようでもあるという、風味が特徴です。
蒸しパンならぬ、“蒸しケーキ”もあんぱん同様、私たちが最初に作りました。
当時から蒸しパンはありましたが、乾燥や硬くなるスピードが速いというデメリットがありました。
そこで、「やらわかさとおいしさが長続きし、長時間保存しても食味の落ちない蒸しパン」の作ろうと、その開発に着手したのです。
開発担当者や職人さんにお話を伺うと、最初は手探りで始め、素材選びや配合など、数えきれないほどの試作と研究を重ねたそうです。混ぜた生地を何度でどのくらいの時間寝かせるか、蒸気をどのように入れて、どう加熱するかなど、気の遠くなるような検証を重ねたそうです。それと同時に、蒸す機械の開発、調整もあったそうです。

――ふわっとした見た目のむしケーキを手に取って、割るとバニラと卵の香りが立つ。口に入れるとしっとりとした触感と、甘さが広がっていく……むしケーキを最初に食べた感動を覚えている人も多いです。あれは日本人がそれまでに食べたことがない味でした。木村屋總本店は商品の開発のみならず、他者とのコラボレーションにおいても、常にイノベーターであり続けています。

先々代が唱えていた「健康と味覚の楽しみに貢献する」という言葉を大切にしています。それは、パンが明治時代の国民病だった脚気(かっけ)の治療に貢献をしたことも背景にあると思います。
今は生活習慣病が問題になっていますから、低糖質や低脂質のパンが求められています。これらも試作を繰り返しながら開発を続けています。
最近では、日清食品さんとコラボした、「完全メシあんぱん」が話題になりました。これは、33種類の栄養素がバランスよくとれるという機能を持っています。

公式サイトで限定100セットを先行販売したのですが、瞬く間に完売しました。食事に時間をかけず、片手で手軽に必要な栄養をしっかり取るという、ニーズの高まりを感じたのです。
食文化のカジュアル傾向と、外食のエンターテイメント化もひとつの課題です。そこで、山手線のエキナカに「キムラスタンド」という飲み物とサンドイッチを手軽に楽しめるお店を出店しました。新しいのにレトロで懐かしいキムラスタンドは、ハムカツサンドや卵サンドなどボリュームがあるサンドイッチとドリンクを提供しており、20~30年代の方を中心に支持をいただいています。このようなサブブランドの開発も重ねていく予定です。
時代に合わせて、皆に知っていただくことも、伝統をつないでいくために大切なこと。キムラスタンドは、懐かしさがありながらも、トレンド感を盛り込んだデザインにしました。若い世代の人たちへの、知っていただくきっかけになっています。

コロナを経て、健康への意識や「命を大切にする」という実感を多くの人が得ていると感じています。食は喜びであり、同時に命の源です。そして健やかな体を維持するには、日々の食生活が大切。そこに私たちのパンが貢献ができるように、これからも挑戦を続けていきます。